読書メモ

【本】斎藤幸平(2020)『人新生の「資本論」』集英社新書.

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目次は以下の通りです。

はじめに――SDGsは「大衆のアヘン」である!
第1章:気候変動と帝国的生活様式
第2章:気候ケインズ主義の限界
第3章:資本主義システムでの脱成長を撃つ
第4章:「人新世」のマルクス
第5章:加速主義という現実逃避
第6章:欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム
第7章:脱成長コミュニズムが世界を救う
第8章 気候正義という「梃子」
おわりに――歴史を終わらせないために

話題の本です。
昨年はやっていたのに、一足遅くに読了しました。
先日、公害教育史に関するイベント企画などに関わった立場として、思考を刺激される本でした。

「人新世」という言葉について、以下のように説明がなされています。

人類の経済活動が地球に与えた影響はあまりに大きいため、ノーベル化学賞受賞者のバウル・クルッツェンは、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、それを、「人新生」と名付けた。人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代という意味である。

p. 4.

この時代の最大の特徴として、本書では「帝国的生活様式」という言葉が説明されています。この話の中で特に印象に残るのは、グローバルサウスの人々への転嫁の話です。

問題は、このような収奪や代償の転嫁なしには、帝国的生活様式は維持できないということだ。グローバル・サウスの人々の生活条件の悪化は、資本主義の前提条件であり、南北の支配従属関係は、例外的事態ではなく、平常運転なのである。         

p.28.

このような転嫁は、技術的、空間的、時間的の三種類の形で起こるとされます。
著者は、マルクスを引きながら、「資本による転嫁の試みは最終的には破綻する。このことが、資本にとっては克服不可能な限界になると、マルクスは考えていたのである。」(pp.42-43)と述べています。

帝国的生活様式と並んで、現在の環境保護政策に対する強烈な批判として機能しているのが、デカップリングの考え方の限界についてです。

新技術の開発で効率性が向上したとしても、商品がその分廉価になったせいで、消費量の増加につながることが頻繁に起こる。テレビは省エネ化しているが、人々がより大型のテレビを購入するようになったせいで、電力消費量がむしろ増えている。…(中略:斉藤)…皮肉なことに、一つの部門での「相対的デカップリング」が全体としての「絶対的デカップリング」を困難にしてしまう。

pp.76-77.

そして、このような問題は、大勢がトップ10%に入っている日本人の生活にとっても大きな意味を持ちます。

事実、富裕層トップ10%の排出量を平均的なヨーロッパ人の排出レベルに減らすだけでも、三分の一程度の二酸化炭素排出量を減らせるという。これが実現すれば、持続可能な社会インフラへと転換するまでの大きな時間稼ぎになるだろう。だが、次のような事実も指摘しておかねばならない。先進国で暮らす私たちは、そのほとんどがトップ20%に入っている。日本なら大勢がトップ10%に入っているだろう。つまり、私たち自身が、当事者として、帝国的生活様式を抜本的に変えていかなければ、気候危機に立ち向かうことなど不可能なのである。

p.82.

SDGsを含む、現代の環境保護政策への批判的検討がなされた後、そのオルタナティブを求めるべく、マルクスの解釈に話が進んでいきます。
幾つか印象に残った箇所をメモしておきます。

一点目
コモンという概念に注目がなされ、晩年のマルクスが近代西洋以外の共同体のあり方について熱心に研究をしていたことに注目がなされている点です。ここに注目することで、マルクス思想の再解釈が展開されています。

近年進むマルクス再解釈の鍵となる概念のひとつが、〈コモン〉、あるいは、〈共〉と呼ばれる考え方だ。〈コモン〉とは、社会的に人々に共有され、管理されるべき富のことを指す。      

p.141.

マルクス自身がマウラ―やフラースといった、他の研究者から「崩壊の道をたどらずに存続した共同体」について多くを学んでいる。とりわけ、古代ゲルマン民族の共同体である「マルク共同体」について、持続可能な農業を営んでいたことを高く評価していたとされます。

伝統に依拠する共同体は、資本主義とはまったく違う生産原理に基づいている。マウラ―やフラースが述べているように共同体の内部には、強い社会的規制がかかっていて、資本主義システムのような商品生産の論理は貫徹できていない。例えば、マルク協同体では土地どころか、その生産物さえも外部と売買できなかったことを思い出そう。共同体では、同じような生産を伝統に基づいて繰り返している。つまり、経済成長をしない循環型の定常型経済であった。共同体は、単に「未開」であったり、「無知」だったから、生産性が低く、貧困にあえいでいたわけではない。共同体においては、もっと長く働いたり、もっと生産瀬力を上げたりできる場合にも、あえてそうしなかったのである。権力関係が発生し、支配・従属関係へと転化することを防ごうとしていたのだ。

pp.192-193.

二点目
マルクスが持続可能な共同体のあり方や経済を評価していた一方で、テクノロジーや科学の役割も重視していたという点です。
現代の環境教育政策のあり方を考える際に、ここでいう「合理的に規制する」ことをどう捉えるかというのが、重要な要素になってくるように思いました。

第4章で見てきたように、晩年のマルクスは進歩史観を否定し、全資本主義的な共同体における伝統に重きを置いた定常型経済を評価していた。だが、そのことは科学やテクノロジーの拒否を意味しまう。生産者たちが、自然科学を使って、自然との物質代謝を「合理的に規制」することを、マルクスはあくまでも、求めていたのである。             

p.226.

三点目
いわゆる「貧乏を耐え忍ぶ」という発想と、本書が求める生活モデル自体が異なるということです。本書ではこのことを「ラディカルな潤沢さ」と述べます。詳述はできませんが、資本主義が人工的希少性を作る構造になっており、それを打破する必要がある、という話には色々と気づきを得ました。

貧相な生活を耐え忍ぶことを強いる緊縮のシステムは、人工的希少性に依拠した資本主義の方である。私たちは、十分に生産していないから貧しいのではなく、資本主義が希少性を本質とするから、貧しいのだ。これが「価値と使用価値の対立である。この間の新次週主義的な緊縮政策というのは、人工的希少性を増強するという意味で、資本主義にぴったりの政策であった。それに対して、潤沢さは、経済成長のパラダイムからの決別を求めていく。「ラディカルな潤沢さ」を掲げる経済人類学者ジェイソン・ヒッケルも次のように述べている。「緊縮は成長を生み出すために希少性を求める一方で、脱成長は成長を不要にするために潤沢さを求める。」。

pp.268-269.

四点目
市民の社会運動を促している点です。
本書で引用されている。社会学者マニュエル・カステルの「社会運動なしには、いかなる挑戦といえども国家の制度(中略)を揺るがすほどのものを市民社会から生み出すことはありえない」という言葉のインパクトが強烈でした。

本書が問題にするのは、ライフスタイルの次元の「帝国的生活様式」ではなく、そのような消費を可能にしている生産の方だ。つまり、重要なのは「帝国的生産様式」の超克である。前者を是正するためには、後者こそ克服しなくてはならない。ただしここで繰り返しておきたいのは、いきなりトップダウンの解決策に頼ろうとする「政治主義」モデルは、機能しないということである。もちろん、政治は必要だし、気候変動対策のタイムリミットを前にトップダウン型の対策も求められる。だが、気候変動に対峙する政治は、資本に挑まなくてはならない。そのような政治を実現するためには、社会運動からの強力な支援が不可欠になる。            

pp.296-297.

五点目
私たちにも可能な運動のあり方を提案してくれている点です。本書では、バルセロナやフランス等、様々な事例が紹介されているのですが、特に注目されているのが「ワーカーズ・コープ」という協同組合の仕組み・考え方についてです。

ワーカーズ・コープは、労働の自治・自立に向けた一歩として重要な役割を果たす。組合員がみんなで出資し、経営し、労働を営む。どのような仕事を行い、どのような方針で実施するかを、労働者たちが話し合いを通じて主体的に決めていく。       

p.261.

政策の内容的にも、運動の方法論的にもここまで革新的な試みを、バルセロナが次々と成功させ、市民の支持を得ている秘密のひとつが、ワーカーズ・コープの伝統だ。そう、マルクスが「“可能な”コミュニズム」と呼んだ、労働者協同組合である。

p.334.

草の根の地域での運動が、現代のネットワークを通じて、世界的な運動へと繋がっていく可能性を本書は示しているように思いました。
本書でもカギとなるのは「社会運動」でした。運動とは何か。引き続き考えさせられそうです。
勉強になりました。

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