目次は以下の通りです。
はじめに
1 青春の章―感動ある行事と人間教育への願い
2 朱夏の章―人間としての生き方を求める
3 白秋の章―自己学習力の育成
4 玄冬の章―広がるふれあいの輪
5 明日への章―さらなる人間教育への願い
最近、学校や実践者の書くリアリティのある文章に興味が高まっており、先日読んだ『デモクラティックスクール』でも紹介されていた本書を手に取りました。
総合学習と教科学習、さらには特別活動や道徳を関連付けて、大胆なカリキュラム編成をしていることがわかる本となっています。
直接体験を重視した総合学習をカリキュラムの中核に置いている点が特徴的です。
私たちは、学校の教育活動を、教科や道徳・特別活動という枝分かれした視点でのみとらえてきたことへの反省に立ち、直接体験活動を中核に据えたカリキュラムを組織し、一過性のイベントとしてこなすのではなく、息の長いスパンで見つめ直そうとしてカリキュラム化したのが「総合学習」である。なぜなら、人間の社会生活は元来きわめて「総合的」であり、教育において将来の社会生活に生きて働く力の育成をめざすならば、社会性を相応的なままに追究する場面が必要となってくる。そのために私たちは、体験的学習による自立的な判断力や実践力を育て、生涯にわたって「人間として学び続ける」ための基を築きあげてやりたいのである。
p.30.
その際に、教科と総合の関係性について、上野中学校の見解が述べられており、参考になります。「総合的な学習の時間」が創設される前になされた取り組みとしても、多くの示唆が得られる気がします。
言い古された月並みないい方に、たとえば「数学で苦労して方程式が解けても、実際社会では何の役にも立たない」というのがある。学校での学びがその本質と目標を失ってしまっていることへの逆説を、私たちが見過ごしていいはずがない。教育は本来望ましい人間性への統合をめざしていたはずであるのに、また、そのための各領域への枝分かれであったはずなのに、いつの間にか受験の目的としての役割を大きく担わされてしまっている。現場の私たちに必要なのは、社会情勢を嘆いたり受験体制の批判をしたりすることではなく、私たちの学習観の明確な移行とそのためのカリキュラム作りである。より望ましい人間として社会生活を主体的に切り開いていく統合的な力の育成は、社会生活を総合的なままに体験的にまるごと学習を組織することにより図れるはずである。
p.31.
体験活動は、今までの生活環境や教科での学習の知識が素地となるが、子どもたちはあらためて実践場面での方法や対象の仕方を知らないことに気づき、教科の知識だけで推し量ったり、割り切れなかったりすることの多さに驚くであろう。そして、例えば社会科の知識と数学の解法のテクニックが結びついて初めて、実践的な課題解決ができることを発見するであろう。つまり、体験活動を通しての知識の再構成・融合が、統合的な力を育て、より深い認識へと導く。総合学習では、教科の必要から学ぶのではなく、学習の深まりが各分野の統合的・応用的な力を育て学際的学びを展開するのである。それゆえ。総合学習の必要と必然が、統合的な力を大きく育てる役割を担うことになる。
p.31-32.
総合を軸としている一方で、教科の学習も非常にも工夫がこらされています。個別化・個性化教育としての教科学習の方法として、その考え方を実践しています。「パッケージ」の開発を複数することで、生徒の多様性や興味関心にこたえていく、という発想が面白いなと思いました。
現在、国内の中学校で行われている教科学習を中心とした個別化・個性化教育のすがたは、ほぼ共通化してきている。具体的には、先にも述べたように「単元ない事由進度によるひとり学び」という学習形態が主流である。本校もこの形態を取り入れてパッケージの開発を進めている。まず、教師のおうで指導に先立って学習のねらいを設定し、生徒の学習活動をある程度コントロールする。しかし、生徒は学習活動を展開するなかで、興味や関心に基づいて個別の学習スタイルで学習を深める。そのため、学習者は学習の仕方も自分で発見し作り出している。これらは教師が意図した以上の狙いも達成できるように考えられた学習である。
p.102.
パッケージの開発にあたっては、芸術教科を除く5科目の教師各名ずつからなる教科指導研究部を中心に行っている。基本的にはこの部会で作成していくが、各教科部会での話し合いも開発に重要な要素のひとつとなる。開発の手順としてまず第一に考えなくてはならないことは、単元の選択の仕方である。単元の目標をよく吟味することはもちろんだが、くわしい説明を多く必要とする単元や、集団討議が重要な単元は個別化・個性化のパッケージとしてはあまり適していない。一般的に社会や理科などは選択できる単元の幅はかなり広いが、数学、英語など系統的な色彩が濃いものは、ある程度単元は限られる。しかし、それ以外には制約するようなものはないといってよい。逆に、一斉指導でなければ指導できない単元を探してみると、実はほとんど見あたらないのである。とりあえず開発を進めるには、作成者の得意分野(最も多くの情報とアイデアを持っている単元)、なかでも、より個別的な学習に適していると思われる単元から始めることにしている。
p.105-106.
具体例として、第1学年の数学の単元名「正の数・負の数の計算」が掲載されています。同じ単元を「ビデオコース」「教科書コース」「先生コース」「自由コース」に分かれて、個々の生徒の理解度や学びやすさを重視した教科学習ができる形となっています。
総合学習を軸としたカリキュラムであったり、個別化を進めていく教科学習などの話は、最終的に評価の話と直結します。
本書では、いかにして個々の生徒の学びを評価できるのか、という点にも問題意識が置かれているように思いました。
本来なら、生徒一人ひとりが自学自習する姿を出来るだけ客観的に記録することが望ましい。しかし、中学校では、1人の教科担任が受け持つ生徒の数は、少なくとも120人ほどである。多くの場合には200人を超える。その一人ひとりの学習プロセスー単元内で評価(理解)することは相当に困難なことである。また、生徒の学習の姿を見つめても、どういった視点で記述すれば、生徒理解に本当に役立つかが曖昧なままであった。そのために私たちは、各視点とも4種類の評価文例を作成し、生徒を捉える手掛かりとした。しかしながら、この方法は評価活動の煩雑さからの解放と引き換えに、生徒の姿をあまりにも一般化してとらえることになってしまった。けっきょく、どんなに煩雑になろうと、生徒の姿を客観的に記述することが最も適切な評価となりうることに気づいた。
p.116-117.
私たちは、評価の対象を生徒全員から抽出生徒へと変更した。1クラスにつき数人の生徒を抽出し、時間内の活動を記録していくことにした。当然のことながら、かなりの生徒理解としての成果はあがった。そして、パッケージの加除訂正の助けにも大いになった。本来の評価の意味からいっても、生徒一人ひとりの学習の姿を捉えるという趣旨からは、あまりにもかけ離れてしまった。
けっきょく、原点にかえり、一人ひとりの姿をそのつど記録し、累積していくことが、最も有効であり必要であるという結論に達した。一斉指導の授業に比べれば、より多くの生徒の学習の姿を見ることができるのだから、確かな目をもって学習記録をとることに心がけていれば、すべてのフレームでの記録はできないにしろ、少しずつではあるが生徒の傾向性は見えてくるはずである。
総合学習はその性質上、活動が私たちの予測を超える。だからといって私たち自身が生徒個々の活動を正しく掌握することをしなければ、活動は低次元なものとなり、本来の目標を失わせてしまうことになる。初期の段階においては、私たちの活動への焦りが生徒一人ひとりを大切にすることを形式的なものにしていたし、生徒のどんな力のどの部分を引き出したかということへの考察が、実は曖昧であった。また、私たちが本当にとらえなくてはいけない、生徒の活動過程の豊かな人間性への形成を正しく認識・評価することをややおろそかにしてきたことも否めない。そのため、生徒の発する信号をうまくキャッチできなかったり、とらえても的確な示唆を与えられなかったりした。そこで、わたしたちはまず、私たち自身の総合学習に対する評価観を確かなものとするために、通知票に総合学習の所見欄を設けた。当初は事実の記録に終始してしまったが、その後の研究の積み重ねにより、総合学習目標に迫ろうとする生徒の試行錯誤や、応用的なものの見方・考え方などの視点から記録する方向が定着しつつある。
p.156.
先生方の試行錯誤の感じが伝わってきます。
同時に最終的に全生徒の記録をとろうということになったというあたりは、教員の貪欲さや、総合学習における学習評価の重要性が感じられる点でした。
最後に興味深かったのは、カリキュラム改革が学校内での施設や空間の使い方の改革とも連動していた点です。例えば図書館の役割や教科学習と図書館の連携などはその一例といえます。
図書館は情報発信センター
p.184.
私たちは学習室・多目的室の中心拠点として図書館を位置づけた。現在廊下取り込みの2教室分のスペースをもっていて、床にはカーペットが敷かれている。この部屋を情報センターや学習センターとして機能させるために、既成の図書館の概念を捨てた。この部屋には図書資料のほかに視聴覚機材を整え、学校生活や学習のあらゆる情報が得られるようにした。各学年室と教科多目的室の掲示内容や生徒会・委員会活動の広報コーナーを設けた。ここでは生徒の学習への要求が、どの部屋で何を調べれば満たされるのか分かるようにした。
また、地域の人たちが気軽に学校に来れたり、生徒とかかわれる空間づくりが追究されています。これらの試みが、総合学習などでのボランティアやゲストティーチャーとの協働へと発展していく流れも感じることができました。
授業後の校庭開放や体育館開放が実施されてから、数年になる。しかし、それは授業後の単なる施設の開放であり、直接生徒とのつながりやふれあいの機会が設けられていたわけではない。「地域に開かれた学校を」と叫ばれる中で、本稿でも授業参観などの行事の工夫や、校区懇談会などの機会に地域の方々の話を聞くなどの努力はしてきた。コミュニティールームは、これまでの発想を切り替えた。地域の学校としての施設を自由に利用してもらい、直接生徒と触れ合える場所とした。
p.190.
他にも、エピソード豊かに描かれている実践がいくつも収録されていて、読んでいて元気を頂きました。学校での教師と生徒の時として緊張感のある雰囲気や、思わず感動してしまうワンシーンなど、様々なです。
勉強させていただきました。