読書メモ

【本】佐長健司(2019)『社会科教育の脱中心化―越境的アプローチによる学校教育研究』大学図書出版.

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目次は以下の通りです。

第1部 教育内容と学力
 第1章 概念的知識のディコンストラクション
 第2章 「トゥールミン・モデル」による教育内容の検討
 第3章 サイボーグ化する学習者のハイブリッド学力
 第4章 社会変革へ向かう学力を求めて
第2部 カリキュラムと授業
 第5章 プランからの解放と状況への自由
 第6章 プランから社会的ネットワークへ
 第7章 市民社会に埋め込まれた問い
 第8章 市民的変容のダブル・バインド
第3部 学習評価
 第9章 社会科ペーパーテストの状況論的検討
 第10章 二人称アプローチによる学習評価
 第11章 歴史テストのアフォーダンス
 第12章 社会的相互行為としての知識

社会科教育学の研究に真っ向から理論武装し、新しい地平を切り開こうとしている(してきた)研究です。
他学問の理論を使いつつ、社会科教育の代表的な理論に対して批判・代案提示をしていく論じ方に強く刺激を受けました。面白かったです。

本書の主張は、「まえがき」の一部分に集約されているとは思います。

本書の目的は、教育原理として自明視されている内化(internalization)を脱中心化(Decentering)へと転換する試みにある。・・・(中略:斉藤)・・・内化は、学習者個人が知識や技能(方法的知識)を所有するかのように習得、あるいは形成するとみる。習得によって個人の内面に知識や技能が形成され、知的な行為が可能になると考える。しかし、個人を過剰に重視する内化は、環境と散り離して、学習者の知的な活動をとらえる。そのため、学習者による心と身体及び行為との相互作用、他者との相互行為にはほとんど目を向けないのである。内化に代わる原理が、脱中心化である。それは、学習者個人の内面に焦点をあてない。それは、心と身体、および環境、他者との関係に学習をみるように視野を拡大する。例えば、授業において学習者相互に、さらに学習者と教師とが協働する。すると、それらを学び合いととらえ、協働によって可能となった成果を個人に還元する見方はしない。さらには、学校外部の人々との協働への視野を拡大し、学校を超える社会的な学び合いをも模索する。もちろん、学習者の内面は空虚ではない。そこには、いくらかの内的な表象(イメージや知識)は認められよう。しかし、それ以上に、身体及び環境との相互作用、他者との相互行為がリソースとして学習を豊かにするのである。

p.3.

本書の内容は、この主張を様々な視点や論点を通して、説明していく内容となっているように感じます。まさに、第一部で教育内容・学力について、第二部でカリキュラムと授業について、第三部で学習評価についてと、順番に論じられていきます。

また本書の中で印象的だったのは、本書のかなりの紙幅を使って、正統的周辺参加論や状況論をはじめとする、背景理論の説明が行われていることです。
それぞれ、授業論の補強のための説明というより、それ単体としてもかなり詳しめに説明されている感じがします。
その背景にこそ、本書の副題である「越境的アプローチ」という視点があるのだろうと感じました。

さて、越境的アプローチは、哲学や認知科学、文化人類学、社会学などの、多様な領域の研究成果を足場として、学校教育を論じることを必然とする。越境によって得られる学校教育研究の外部の研究成果を参照し、引用する。すると、それは学校教育の研究になっていないのではないか、という疑念もでてこよう。しかし、学校教育の研究が学問として発展するためには、確かな足場を必要とする。それを、外部の他の学問領域に求めているのである。もちろん、学校教育及び社会科教育学が学問として自律的に成立するには、領域の固有性は欠かせない。それでは、個別学問の固有性に対して禁欲的になることも、ときには必要であろう。

p.281.

他領域の理論をどん欲に吸収して、社会科研究に活用しようという発想が随所に見られるのが特徴的でした。

そして本書は、社会科教育学で常識(?)になりつつある定説に対して、一つ一つ批判していきます。

一例を挙げれば、
たとえば、概念的知識が異なる状況に転移をしているわけではなく、実はアナロジーによる推論が行われているだけだということ(p.25.)だったり、
たとえば、最近では頻繁に使われるようになったトゥールミン図式についても、トゥールミンの認識論から見ると、状況論的な留保条件をたくさん付けて論じないと、当初の意図とはズレてしまうこと(p.62.)などが挙げられます。

私の勉強不足とはいえ、特に考えさせられたのは、仮説検証型の授業に対する批判です。

このような学習理論に対しては、第1に、実証主義的研究の場合を想定しても、学問的な正統性については疑問を感じざるを得ない。なぜなら、上のような学習展開を構成する仮説―検証(反証)の行為は、本物の研究活動の一部でしかないからである。研究者ならば誰もが同意すると思うが、上のような形式的段階のように研究は進まない。膨大な時間とエネルギーを注いで先行研究の把握と批判に苦渋し、明確な仮説を立てることなく試行錯誤を繰り返したり、試論を書き重ねたりなどするのが一般的な研究活動である。最終的な論文として発表する場合は、仮説―検証(反証)の形式によって科学的知識成長の物語として記述する。したがって、正統性が弱いのではないか、と言わざるを得ないのである。

p.165.

学習者は学問的な理論について、研究者の著作から引用を史料として読み進めながら、理論を理解するようになっているからである。すなわち、歴史学の研究者による研究成果に対して、異なる理論的立場から本格的に批判するのではないので、十全的な参加を強いることにはならない。そもそも、学問の世界においては、研究者が先行の理論を批判することによって新たな理論を作る行為は、天才でもないかぎり、かなりの年月を経てから始まる。新参者には先行の理論の批判などではなく、古参者の研究活動の補助や研究作法の習得、先行研究の把握等の低い要求水準に答える周辺的な参加が求められるのである。

p.166.

この主張の意図はよく分かるのですが、授業づくりの根幹にかかわるような根深い論点を含んでいるような気がしました。「歴史家のように・・・・する」授業が最近でも多く提案されていますが、それらの実践が、本書の論理から見て納得が生まれるような授業なのかどうか、非常に気になる点でもあります。

また、この本書の主張を読むと、『社会科授業づくりの理論と方法-本質的な問いを活かした科学的探求学習』が書かれた理由が改めて実感できるようにも感じました。

本書の後半では、学習評価についてもかなり詳細に論じられています。

本書の立場としては、「自己は他者との関係のなかで、流動的に構成される存在であることを強く自覚すべきである。」とされ、「学習評価だけでなく、教師と学習者、さらには学校というシステムに対する見方を更新し、「認識論的個体主義」のイデオロギーに抵抗するべき」(p.235.)ということになります。

本書の論旨から見て、その主張はとてもよく分かります。

同時に、大学入試問題を検討してその問題性について、テストを受ける側であった生徒にも話を聞きながら分析するあたり、そのアプローチに刺激を受けました。

二点ほど、印象に残ったことをメモします。

一点目は、本書が戦後初期の社会科を高く評価している点です。

授業づくりをめぐる「座席表」「カルテ」の考え方や、重松・上田らの「思考体制」の研究など、随所で初期社会科の考え方を分析・紹介しています。

もちろん、本書の主張の主軸は、初期社会科の再解釈をすることにあるわけではないのですが、本書のスタンスで戦後初期社会科を色々と再解釈できるのだろうなあと、考えるだけで楽しくなりました。
(私の勉強不足で、関連した発想を持つ先行研究は既にあるのかもしれません。)
1960年代以降の社会科理論は、初期社会科に批判をしたり改善を促す形で提案されていくわけですが、そういった論理構造自体を書き換えていく魅力が本書にはあるような気がします。

二点目は、政治的な市民社会への参加を実質的なものにするための、「社会科」の枠内で取れるスタンスについてです。

これについては、市民社会への参加を想定した社会科授業だと、その授業内容の実社会におけるリアルさが重視されるということはわかります。ただ、その「真正性」のようなものをどこまで求めるのかについては、悩ましいなと思いました。

特に印象に残るのは、社会科授業で社会問題解決をしようとしても、ダブルバインドに陥るという話です。

学校外部に向けて、社会的問題解決のために、社会的実践の中で語るものの、解決は決して実現しない状況が生むダブル・バインドへの挑戦である。緩やかな第一の場合と比べ、より深刻な場合である。たとえば、社会的問題解決のために、政策や事業を立案し、行政の担当部署に提案することはできる。不都合な社会的問題を解決するための政策や事業である。しかし、簡単にそれが受け入れられることはない。なぜなら、行政の担当部署においては、そのような提案の行為は実現には役立たない「学校のお勉強」だと解釈されるからである。・・・(中略:斉藤)・・・そのため、見果てぬ夢であるにもかかわらず、社会変革の実現を求め続けるならば強いダブル・バインドの苦しみが続く。そこには、自己の無力さを強く自覚することになる。危ういことだが、無力化が最大になるとき、自己回復の契機が与えられる。それは、無力化によって失われた自己を回復しようとする中で、社会との関係において新たな自己の形成が可能になることである。たとえば、社秋変革の実現を期待することなく、それを愚直に語り続ける自己になっていくことがあるだろう。それを語り続けることは特別なことではなく、ただ市民として生きること、市民の日常生活になってこよう。すなわち、社会変革のコンテクストから、市民的生活のコンテクストへの移行である。ここに認められるような、学校では難しいかもしれないが、覚醒的な自己変容が確かに市民になることではないか。

p.191-193.

このようなダブルバインドを徹底的に追究していくスタンスはよく分かる一方で、以下のようにも述べられています。

時間的にも限られた社会科学習においては、市民社会への参加は、他者との議論でもある語りに限定する。社会科は、他の政治参加としての運動的な行為はできないし、するべきでもない。すなわち、市民としての語りが求められる状況において、市民らしく社会について語ることを社会科学習とする。

p.181.

この二つの話は矛盾しないのだと思います。ただ、ここら辺の線引きというのは、非常に繊細な判断が求められるのだろうと感じました。
市民社会への参加をイメージしつつも、「社会科」の枠でとどめるラインをどこまでにするのか。もっと学んでいきたいなと思った次第です。

自身で理論を開拓し、体系化していくというのは、本書のようなことをいうのだろうと感じる本でした。

とても勉強になりました。

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