読書メモ

【本】渡部竜也・井手口泰典著(2020)『社会科授業づくりの理論と方法-本質的な問いを活かした科学的探求学習』明治図書.

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目次は以下の通りです。

はじめに
第1章 科学的探求学習の特長
第2章 今日の社会科授業の現状と課題
第3章 今こそ,問いからつくる科学的探求学習を
第4章 「問いの構造図」づくりと教材研究
第5章 「問いの構造図」からの指導案づくり
第6章 「本質的な問い」の活用 ―歴史学習の事例研究化―
第7章 「知識の構造図」づくりからの授業づくりの問題点
第8章 問いを構造化しない「なぜ」問い授業の課題
第9章 科学的探求学習の授業プラン
おわりに

社会科としての、民主主義教育としての歴史教育のあり方について、わかりやすく説明した本です。具体的な授業例や教材研究のプロセスなど、通常の論文などではブラックボックス化されやすい「ほんと、そこが知りたいのだよな!!」と思う点が多く論じられており、大いに参考になります。

本書は基本的に、「なぜ」の問いを追究する授業づくりを促しています。逆に、言えば、安易な活動重視の授業には批判的です。

これまで説明してきたように、問いには大きく「何」「どのように」「なぜ」の三つがあった。この三つの問いの中で、法則や理論に触れさせることを可能にする問いは、実質的に「なぜ」だけである。逆に言えば、社会科で「なぜ」を問わないことは、子どもたちから法則や理論に触れる機会を奪うことになるわけで、彼らの社会の分析力を低下させ、そして将来を予測する力を奪うことになるのである。

p.56.

我が国の子どもたちの多く、いや一般の大人たちの多くが、「なぜ」の問いに対して、仮説をずらずらと量的に並べることで対応していくことはできる。もしかしたらそれらの仮説のうちのいくつかについては、多少は相互に因果関係をもって関連づけることまでできるかもしれない。だが、それらの全てを紡いでまとめあげ、因果関係を体系的に整理することは、ほとんどの人ができないように思われる。このことは、日本の多くの人たちが、社会の特質まではつかめても、社会の構造を読み解いていく力が欠落していることを意味している。そして、これまで提案されていたきた「資料の読み取り中心アプローチ」や「グループワーク中心アプローチ」の授業の多くは、このような我が国のほとんどの人々に当てはまる問題点を解決するための具体的な手はずを内包していない。

p.186.

また、本書自体が、森分孝治氏が1975年に出版した『社会科授業構成の理論と方法 』をヴァージョンアップさせた内容という位置づけになっています。著者自身の森分氏の論への再解釈なども書かれていて、参考になりました。森分氏の本ももう一度読みたいなと。(そう思ってしまうことが本書の魅力を示しているのかもしれません。)

確かに森分氏の社会科教育論は、社会事象の読み取りを重視する反面、価値判断や社会的行動を脇に追いやる傾向があり、その意味で知育重視であった。しかし、だからといって森分氏の提唱する科学的探求学習を、「技能」や「情意」の育成とかかわりがない学習と結論づけるべきではないだろう。そのように解釈することは、この学習の魅力を半減させてしまうことになる。

p.73.

さて、印象に残った点をいくつかメモします。

一点目は、「なぜ?」の問いがなぜ子どもに難しいのかという点を詳しく論じている点です。なぜ?の対象を個人にしてしまうと分析しづらくなってしまうという話や、「かつ知的な刺激を与えるように展開」にするために「~ではなく、なぜ・・・?」といった問いかけ」(p.44.)を提案しているのは、共感しました。

二点目は、教材研究のプロセスがとても詳しく載っていることです。
また、授業に使う資料のそろえ方についても論じられていて、具体的で助かるなあと思いました。
単に、資料の話をするのではなくて、それが従来の探求学習への批判にもなっています。

  従来の探求学習では、多くの場合、そこで取り扱われる資料はもっぱら教師の手によって教師の側から「準備されたもの」であった。このことは、教師がついつい自分にとって都合のよい解釈や授業展開に学習者を誘導しようとして、都合の良い資料を選び出してしまう事態を生み出してきた。そのすべてを禁止することは非現実的であるが、探求学習が「子どもたちの」探求の学習としたいのであれば、少なくとも教師はそうした資料の登場が子どもたちの目に不自然に映るようなことがないように配慮する必要があるだろう。
 子どもたちにとって身近にあって、手に取りやすい資料は、教科書や資料集に掲載されている資料であろう。教師はできる限り、子どもたちが年度初めに指定した一冊の資料集や一冊の教科書に掲載されている資料を用いて考えることができるように、授業を組み立てていけることが理想的である。だが探求学習を進めていくうえで、必要となる資料の全てが一冊の教科書や資料集に掲載されているとは限らない。そこで次に教師がすべきことは、他者の教科書や資料集に掲載されている資料を活用することである

pp.94-95.

この教科書や資料集をベースにした授業が仮にできれば、いわゆる教科書ベースの授業とのある程度の折り合いも付けた形での、授業づくりが可能なのではないかと感じます。

三点目は、民主主義教育を目指した歴史教育としての「本質的な問い」の特徴について、詳しく説明している点です。この点も、従来の探求学習との違いや、一般的な逆向き設計論との違いを強調しており、読者目線で理解しやすい気がしました。

本書で言うところの「本質的な問い」とは、はっきりとした解答はないオープンエンドな問いで、かつ主権者として、市民として、私たちが社会で生きていくために、考えていかなければならないような性質の問いのこと、と定義したい。例えば、「なぜ差別は生まれるのか」「どうして暴力の連鎖を断ち切ることができないのか」「独裁者が必要な時はあるのか。あるとすれば、それはいつか」などといった問いを筆者は想定している。これらは抽象的な問いであり、私たちがこれに答えるためには、過去の事例研究から学び、考えていくほかない。

p.124 .

科学的探求学習の授業原理に基づいた歴史学習も、「なぜ?」の中心発問に答える過程で概念的説明的知識(理論・法則)を扱うことになるので、間接的にだが、「時代や地域に制約されない」汎用的な性質の知識を学ぶことができるとされ、そこから「現代社会の認識に寄与する学習」と位置付けられることが多かった。しかし、これはやや強引な解釈であると言えるだろう。例えば筆者が今回作成した家光の「鎖国」政策(海禁政策)をテーマにした授業は、学びの過程で様々な法則を活用するにとになるが、それはあまり可視化されないまま進む。最終的にMAで得られることになる理論も、江戸時代前期の外交政策を包括的に説明することができるかもしれないが、今の日本社会の外交政策を直接的に説明するものではない、つまり時間的・空間的に活用範囲が制約されてしまう理論、社会学者マートンの言うところの「中範囲理論」と呼ばれる理論に留まっていて、現代社会を直接的に説明することを可能にしてくれる理論ではない。・・・(中略:斉藤)・・・こうした課題を克服するために、現在に生きる子供たちが「学ぶ意味」を感じることができ、且つ通史学習の枠内で実行できる歴史授業を生み出すための策として本章で提案したいのが、科学的探求学習の授業原理に基づく歴史学習に「本質的な問い」を設定することで同学習を「事例研究としての歴史学習」に転換するというアイデアである。

p.125.

四点目は、本書の理論を活用した学校現場の現職教員(井手口教諭)の実践を紹介する際のプロセスについてです。井手口氏の意見も明確で、本書が望む理論を取捨選択しながら実践へと結びつけているプロセスが良くわかります。
またそれに対する渡部氏の見解もストレートに示されていて、興味深く思いました。

私自身、理論と実践の両方を示した本や論文はよく見かけますが、その間のギャップだったり、「語られない情報」が気になることは多いです。本書のスタイルは、その語られない情報を明示している点が分かりやすいなと。
以下、井手口氏の指摘と渡部氏の指摘の一部。

科学的であることを重視して問いの構造図を精緻に作れば作るほど、問いの数(特に下位の問い)やそれに答えるために用いる資料の数が増えていってしまうことがある。それをそのまま丁寧に生徒に提供しようとすれば莫大な時間がかかってしまう。
 まず生徒に発問する、生徒に資料を探させる、生徒が探した資料を読み取ったことをグループで共有したり書き起こしたりする、生徒が発表したことを板書にまとめる、よくわかっていない生徒がいればさらに下位の問いを投げて理解を促す・・・すべての発問でこれらを丁寧にやっていたのではとてもではないが授業時間内に収まりきらない。かといって、1つのテーマを2時間、3時間に分割すると、たかだか週に2時間の授業では、次の授業まで数日空いてしまい、生徒の探求過程の記憶が抜けていったり、何が一番掴みたいことだったのかがぼやけてしまったりする。したがって、できるだけ1時間1テーマでまとめてしまいたい。

p,188.       

なぜ、もっと筆者(渡部)の原則に近い実例を本書で掲載しないのかとお考えの読者もおられるかもしれない。それには次のような回答をしたい。おそらく、この井手口教諭のように、ほとんどの教師は筆者が本書で論じていることの全てを実行することは時間的にも制度的にも難しいのではないか。筆者の言っていることを取捨選択する(筆者はこれを「教師のゲートキーピング」と呼んでいる)必要があるケースの方が圧倒的に多いのではないか。もしそうであるならば、むしろ井手口教諭の事例にあるように、生々しい事例の方が、本書の第一読者として想定している社会科(歴史)教師にとっては共感しやすく、かつ、参考になる部分が多いのではないかと筆者は判断し、あえて掲載することにした。「おわりに」にも筆者は書いているが、社会科授業の全てを筆者が前もって全て決めることなど不可能だし、決めようとする行為は危険である。状況によって、いろいろあって良いと思う。

pp.189-190.

以上、大変勉強になりました。


そのほか、個人的に今後考え続けたいなと思った点が二点ありました。

一点目は、授業の時間数についてです。
筆者自身は「筆者は、1時間単位で授業計画を作成することに心から反対している」(p.225.)と述べているのですが、本書自身が教科書・資料集でも作れる授業を目指しているだけに、時間数の問題は少し気になりました。
1時間単位の授業にしたほうがいいという意味ではなく、教科書ベースでも進められる感じを醸し出していたので、尚更そう思ったという意味です。著者自身も「教科書のいくつかの頁をまとめることができるように再編することで、時間数をある程度確保するなど、いろいろ工夫はできるはずだ。」(p.226)と述べており、この可能性を追究できるのか、またその可能性を追究することが本書の意図とずれていかないのかなど、少し気になりました。

時間数の問題は、制度的・外的な問題でもある一方で、カリキュラムの骨格を担うような論点である気もします。それが結果的に教科の区分の話などにも派生しそうな予感もします。

二点目は、本書のような学習が前回紹介した『社会科ワークショップ』の授業をどう見るのだろうかという点です。個人的には背景となる授業観や教育観がかなり対照的なように見えました。
色々な論点がありそうな気がしますが、焦点の一つとなりそうなのは、教師が指導要領を解釈してよい幅の問題ともかかわってきそうな気がします。この話は、以下の点とも関連するような気がします。

三点目と四点目については、学習指導要領が通史構成や主題設定をある程度行ってしまうこの日本において、「本質的な問い」を、まず設定して「逆向き設計」で授業をつくるという西岡氏の想定それ自体に限界があることを物語るものである。「本質的な問い」を十分生かす授業を「逆向き設計」でつくるためには、自由に主題選択ができるという前提がなければならない。しかし特に日本史(中学校歴史的分野)は通史構成で、主題も学習指導要領がいろいろ設定し、教師側に主題選択の自由はあまり多くない。これでは、「本質的な問い」を十分に生かす形での事例選択が難しい。筆者としては、場合によっては、まず学習する主題についてしっかりと授業設計と教材研究を行い、授業の内容を明確化・具体化した後で、内容にマッチした、主権者になる上で検討に値するような「本質的な問い」を「後付け」設定してはどうか、と考える。

p.140.       

筆者のイメージしている授業スタイルは、西岡氏の論や、ウィギンズやマクタイの論とも違うのかもしれませんが、リン・エリクソンの概念型カリキュラムの考え方とも異なるようにも思います。
重なる点もありつつも、似て非なる考えを整理し、それぞれの論の長所や有用性について、改めて考えたいなと思いました。

いずれにしても、とても参考になりました。読むべき本です。

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