目次は以下の通りです。
第1章 中学校社会科・高等学校公民科教育の意義と課題
第2章 中学校社会科・高等学校公民科教育の構造
第3章 中学校社会科・高等学校公民科の教師
第4章 中学校社会科・高等学校公民科教育の目標論・学力論
第5章 中学校社会科・高等学校公民科教育のカリキュラムデザイン
第6章 中学校社会科・高等学校公民科教育の授業分析・開発・評価
第7章 中学校社会科地理的分野の学習指導・評価
第8章 中学校社会科歴史的分野の学習指導・評価
第9章 中学校社会科公民的分野の学習指導・評価
第10章 高等学校公民科「公共」の学習指導・評価
第11章 高等学校公民科「倫理」の学習指導・評価
第12章 高等学校公民科「政治・経済」の学習指導・評価
第13章 これからの社会系教科教育の課題と展望
本書のスタンスは、序章でハッキリと書かれています。
教える側の教師自身も、社会科を教えているというよりは、地理、歴史、公民を教えているという意識のほうが強いのではないだろうか。中学校においては、このように事実上、社会科は地理、歴史、公民の三つの分野に解体され、社会科という教科全体の目的を意識して学んだり、教えたりすることが少なくなってきているのである。しかし、社会とは、地理、歴史、公民の内容をまとめた領域を表す概念ではない。社会科は、社会科としての独自の教育原理、内容構成原理、学習原理を持っている。地理、歴史、公民の内容を取り扱えば、社会科の学習になるわけではないのである。
p.1.
私も院生時代から似たような文章を読んできたはずなのですが、改めて、社会認識教育学会のスタンスが明確に示されていると感じました。
このような考えのもとに、全体の構成が貫かれており、一貫したスタイルが分かりやすくもあり、読んでいて葛藤を感じる点でもある、そんな内容となっているように思いました。
また、本書は公民的分野や公民科を軸にして論じられているのですが、特に公民科や公民的分野こそ、目標設定が重要となるという視点は、改めて感じました。
同時に、「公民科は何を教えるか分かりにくい」という生徒目線の指摘の原因がここにもあるのかなと。
地理歴史科では地理を学びそして歴史を学ぶのに対して、公民科では公民を学ぶわけではない。公民になるのであり、公民になることを目指して学ぶのである。それは、教師の立場からいえば公民を育成することということになる。すなわち、公民は目標であり教科で育成すべき人間像を表している。したがって、公民をいかに定義するかによって、公民科の教育内容やその捉え方、さらには学習の仕方が異なってくると考えられる。
P.7
地歴公の公民の分野の内容を教える際に、単に政治経済的な分野であることを強調したり、時事的な内容が多いことを強調するだけでは、公民的分野の特性が分かりにくい。その原因が端的に書かれているように感じました。
なお、読んでいて特に興味をひかれたのは、
第4章の目標論・学力論の章と、第5章のカリキュラムデザインの章と、第9章の中学校社会科公民的分野の単元構想に関する章でした。
第4章に関しては、目標論、学力論という堅めの内容かと思いきや、すっと読めた感じがします。従来的な(?)理論武装とは距離を置き、多様な文脈の人にとって読みやすくなっているような。そんな印象です。
教科の目的をどう考えるか。このような難問にわざわざ向き合わなくても、社会科の授業や公民科の授業は日々行われている。私たちは、社会科や公民科の時間とはどのようなことをやる時間なのかについての、体験に基づいたイメージを持っており、そのイメージを再現する形で多くの社会科や公民科の授業が行われている。それは、つまるところ、達成されるべきは何かという問いに対して無意識的に答えを出していることになる。社会科や公民科の時間に割り当てられた時間には限りがある。そこで何をどこまで達成するのか、意識的であろうが無意識的であろうが、取捨選択は避けられない。
p.38.
堅くなりがちな、目標論・学力論が解きほぐされて説明されている感じがしました。
また、学習指導要領の文言とそれを導く実践との間に距離があり、解釈にも幅がある、という指摘も同感だなと思いました。
学習指導要領の三つの資質能力の考え方が、要素還元的になりがちなので、市民としての力の育成から考える必要があるという点も同感です。
三つの資質・能力という考え自体は、相互に関連させることが意図されているが、教科において達成すべきことの中身は、要素還元的に扱えるようにもなっている。社会科や公民科で市民を育成することを目的として考えると、これらの要素を具体化したり、結びつけたりする部分で、どのような市民としての力の育成を実行しようとしているのか、これについて改めて吟味することが重要になるだろう。
p.46.
やはり、市民像や市民に求める資質の視点から、授業目標を捉えなおさないと、色々と流されて行ってしまいそうだなと考えさせられます。
5章では、カリキュラムデザインについて論じられています。
以下の、見方考え方論の整理がとても分かりやすかったです。
社会科教育における見方・考え方は、指導要領が改訂される中で変化している。概略としては、「獲得・育成」するものから「成長」対象へと変化し、今回からは働かせる「視点・方法」となった。
p.50.
従来は、獲得や成長させるものとして捉えられていた「見方・考え方」が、働かせる対象として捉えなおされた。仮に社会を多様な価値や思想が渦巻く場(問題状況としての「社会」)と捉えたならば、特に高校公民科の授業は、分析的・解釈的(問題状況を捉える)、もしくは実践的・政策的(解決策を検討する)な学習が期待されているといえる。
pp.50-51.
また、社会科の授業は、ともすると、理想の社会を議論しがちで、そのことがリアリティを削いでいるという側面を私も感じていたので、以下の指摘などはハッとさせられました。
授業によっては、問題の視点や理解やフレームワークを用いて単純化することで、その理論自体の理解を目的とする場合もある。しかし、社会の問題は、「考える対象」ではなく「議論し、解決を探り、現時点で妥当なアイデアを立案し、実施する対象」である。多くの価値観や思想が絡み合う複雑な状況の中で、「考える」だけでなく、実現させるために折り合いをつけるための実際的な議論を展開する。お互いが納得することを目指す形式的な議論や合意形成ではなく、納得出来ないが折り合いをつけるしかない実際的な状況である。他者との対話を通じて民主的な社会形成のために積極的な役割を果たすための共通の対話へ参加し、完全な合意ではなく、各々の見方・考え方を捉え、納得できない状況でありつつ、しかしそれを認めていく。理想的な社会を議論するのではなく、複雑でわかりにくい、必ずしも正解の無い難しい実態をそのまま学習の対象とする必要がある。つまり、社会の実態に学びを置く必要がある。社会問題の扱いを学びの手段化とせずに、目的化されることで学びが社会へ開かれたものへと変化する。
pp.51-52
「社会の問題は、「考える対象」ではなく「議論し、解決を探り、現時点で妥当なアイデアを立案し、実施する対象」である。」という表現が印象に残りました。だからこそ、理想的な社会を議論するのではなく、複雑でわかりにくい、必ずしも正解の無い難しい実態をそのまま学習の対象とする必要がある、とされる。社会科の目標論・学力論を整理するというよりも、独自の主張も入っており、読みごたえがあるように感じました。
もう一点、印象に残ったのは、単元開発に関する9章の指摘。
本書のスタンスから見ても一貫していると思います。ただ、だからこそ考えさせられてしまいました。
中学校社会科の授業づくりは、分野を問わず、教科書の記述を教えることを目的として、その指導の工夫を検討するという授業方法研究として行われることが多い。・・・(中略:斉藤)・・・中学校の教育現場で広く見られる社会科授業づくりは、資料を集め、発問を考え配列し、板書計画を立てることによって、教科書の記述をよりよく教えることをめざす授業方法研究の手段に基づいて行われているわけである。
pp.90-91.
しかしながら、このような授業づくりの方法では、「なぜ政治・経済の詳細を事細かに学習しなければならないのか」「なぜこの時間にこの内容を学習しなければならないのか」という生徒が我々教師に突き付けてくる根本的な問いかけに答えることができない点で課題があるのではないだろうか。・・・(中略:斉藤)・・・授業方法研究としての授業づくりの方法は、教科書の記述を教えることを目的視し授業の目標や内容について検討させることができないため、生徒に公民的分野の学習意義を実感させることができないという課題に直面してしまうわけである。
ここでの記述は、基本的には教科書に書かれていることとは独自の単元開発をすることを意図して書かれています。
社会問題を軸にすることで、学ぶ意義を示しやすい、という指摘も分かります。
ただ、だからこそ、社会問題を軸にした学習と、教科書の配列や記述との間を埋めるような授業づくりはないものかと読んでいて感じてしまいました。
社会問題を軸にした学習に振り切ってしまうと、話としては分かりやすい(授業を作るのが簡単という意味ではないです。そこは重要。)のですが、そのスタンスを取ることによって、意図的に避けている問題が多くあるのではないかなと。
本章の内容に対する不満ではなく、社会科独自の原理的な特徴を追究する社会科授業づくりの難しさを感じた瞬間でした。
学び多き本でした。