米国の戦後教育政策史を追った本です。
目次は以下の通りです。
序章 初等中等教育法50周年の意義とその再考
第1部 公正を求めた闘い―初等中等教育法の原点
第1章 初等中等教育法への道のり
第2章 連邦教育援助の目的の焦点化―1965‐1978年
第3章 規制の負担がもたらした変革―1978年-2015年
第4章 連邦教育援助施策は効果的だったのか
第2部 スタンダードとテストで結果責任を問う政策の功罪
第5章 4人の大統領によるスタンダードにもとづく改革
第6章 スタンダードにもとづく改革は効果的なのか
第3部 連邦教育政策における司法の役割
第7章 障がいのある子どもの教育とバイリンガル教育
第8章 人種、性別、言論における平等政策の帰結
第9章 学校教育への連邦関与からの教訓
第4部 教育における連邦責任の再検討―新たな発想による政策提言
第10章 学校教育に関する最大の問題
第11章 教授学習過程を改善する連邦資金援助
第12章 憲法および法律による良き教育の保障
終章
エピローグ
本書では主にアメリカの教育政策における連邦政府の意義について語られています。その際に、学区、州と連邦政府との関係が歴史的経緯や事例を交えて詳述されています。
教育における連邦政府の役割は、おそらく他の領域以上に、常に論争の的になり制約されてきた。私たちの多くの州と1つの国家、多くの個人と1つの国民を調整することの難しさを理解するためには、一連の全米教育目標を策定しようとするだけで、214年の年月がかかったことを思い出すだけで十分だろう。
p.ⅹ.
私の考えでは、50年にわたる連邦政府の教育への関与が示しているのは、連邦政府の強固な役割が、ほとんどの生徒にとって最良の学校を実現するのに不可欠だということである。「どの子も置き去りにしない法」(NCLB法)や1970年代の過剰な規制のように失敗はあるだろう。しかし全体的に見れば、公立学校を改善するために州や地方学区を支援するのに必要となる全米の目的、財政資金、指導力をもたらすことができるのは、連邦政府しかないのである。
P.219.
この戦後教育政策史を語るうえで、特に重要とされるのが、1965年の初等中等教育法、1990年代と2000年代のスタンダード・テスト・アカウンタビリティ改革、そして、2014年から始まったコモンコア・州スタンダード、この三点かと思います。政策が提案・合意される過程での政治家の立場や交錯なども詳述されており、政策決定のプロセスを感じられます。
1960年代の連邦議会における連邦援助が、学区間の歳出を平等にするように十分な資金が提供されれば、教育者は教育改善のためにすべきことはわかっていると仮定されていたこと。1990年代と2000年代のスタンダード・テスト・アカウンタビリティ改革の立案者は、生徒の学力向上には高い学力スタンダードを設定し、そのスタンダードの達成度を測るテストを用い、不十分な結果に対しては教員や学校の結果責任を求めることが必要だと考えたこと。そして、そのいずれの方法も正しくなかったことなどが述べられています。(p.4)
また、NCLB法についても、「NCLB法を正当化する主要な理由は、生徒の学力向上であり、その効果が示されていない以上、支援を打ち切る時である。NCLB法の悪影響は、良い影響を上回っている。」(P. 95.)と述べています。
一方で、コモンコア州スタンダードについては肯定的な評価がなされています。
多種多様な州のスタンダードに基づく15年間の経験の後に、州知事と州レベルの教育長は、英語と数学の分野の全米スタンダードが必要だと決め、それがコモン・コアとなった。これらの学習スタンダードは、連邦政府の関与や直接の連邦資金なしに、このような州の当局者によって開発された。2014年7月現在、コモン・コアは、42州とワシントンD.C.で採用されてきた。
178
今日、コモン・コアは、ティー・パーティから攻撃され、共和党保守派からの攻撃も増してきている。反対派、一部のリベラル派からも出ているが、財界勢力分布の右寄りに比べるとそれほどではない。一方で、地方の学校管理職の圧倒的多数派は、コモン・コアを強固に支持している。・・・(中略:斉藤)・・・これらの教育関係者は正しく理解しており、反対派は誤って理解している。後戻りをして、アメリカの教育に、より高度な厳格さをもたらす取り組みを止めることは深刻な誤りとなるだろう。
pp.178-179
このような大きな流れを踏まえつつ、チャータースクール、障がいのある子どものための教育政策、バイリンガル教育の盛衰、人種、性別、言論における平等政策など、様々な論点が論じられていきます。
とりわけ本書で強調されていたのは、合意を形成する際に、幅広い支持を得ることを目指すことのように感じました。逆を言えば、マイノリティの人々を支援する政策を促すにしても、どうすればその支持を得られるかを考える必要がある。
ゆえに課題は、連邦政府に対する広範な支持をどのように形成することができるかである。最低限のことをいうならば、その方途は反対を拡げないことだ。具体的な挑戦は、人口のうち限られた集団(それは多くの場合、権力を持たない人々)に主たる影響を与える問題に注目を集めながら、社会全体の支持を見出す、あるいは構築することである。
p.152 .
この例として特に象徴的だと思えたのが、障がいのある人々に関連する連邦の政策がスムーズに進んだ背景として、障がいのある人々が多様な場所に存在していることが指摘されていた点でした。
IDEAと関連した連邦の立法をめぐる理性的な風潮は、障がいのある人々が、あらゆる生活場面に存在しているという事実による。すなわち、高所得者、中間層、低所得者、全ての民族的、人種的背景、そして、全ての政治支持層に存在する。例えば、共和党支持の障がいのある億万長者は、「障がいのあるアメリカ人法」の支持者であり、ブッシュ大統領が個の差別禁止法に署名する際に隣に座っていた人物である。
P. 108 .
本書では、学区や州の間での経済格差が教育の質の格差を導いていることを何度も強調しています。その問題を乗り越えて、どのようにして公正な教育が実現できるか。その際に連邦政府の役割が大きくなるということなのですが、そこについて著者の提案が第4部でガッツリと述べられていました。
その他、興味深かったのは、
聖書研究会のために公立学校の使用を求めていた右派・保守派の人々が、ゲイ・レズビアン運動が興隆し、関連する会合の実施が求められた中で、自分たちの会合が認められた理由と同じ理由で、新しい会合の実施を認めなければいけなくなったという話。(p.139.)
あと、教員の質に対する評価は非常にシビアだと思いました。教員に対する専門性を著者なりの能力観で論じており、論争性はあるかもしれません。教員のテストでの学力(や学歴)を重視している感じも受けました(テスト結果と教員の資質は別としつつも)。
誰が教員になっているのだろうか。その問いへの短い答えは、最も優秀で才能のある人たちの層が、あまりにも少なすぎることである。
P. 165.
全体を通して、公正な教育を促す際に、(連邦政府からの)財政的な援助やサポートが必要であること、更には、政治的な合意を導くための戦略やプロセスが重要になることを感じさせてくれる本のように思いました。