本書の目次は以下の通り。
序 章 研究の背景・目的・方法
第Ⅰ部 理論的基盤
第1章 教室・学校・地域における市民性教育の理論的基盤
第Ⅱ部 現代アメリカ貧困地域の市民性教育の問題構造
第2章 貧困地域における子どもの経験の連関構造と市民性への影響
第3章 現代アメリカの教育改革による貧困地域の市民性教育の周縁化
第Ⅲ部 現代アメリカ貧困地域における市民性教育改革の展開
第4章 〈社会科アプローチ〉の市民性教育改革
第5章 〈学校全体アプローチ〉の市民性教育改革_
第6章 〈地域コミュニティアプローチ〉の市民性教育改
第Ⅳ部 総合考察
第7章 アメリカ貧困地域の市民性教育改革の構造と特質
終 章 研究の総括と成果・課題
補 章 大都市学区での市民性教育改革の新展開―イリノイ州シカゴ学
近年、日本でも、「市民性(シティズンシップ)」「市民性教育(シティズンシップ教育)」と冠する本や論文が大量に出版・掲載されるようになりました。
言葉が普及する・認知度が上がることは良いことです。
ただ実態としては、それぞれが個別の領域だけの議論に終わっていたり、異なる領域の間での、応答がなされていないことも多い(私自身の反省です)。
それに対して本書は、まさにシティズンシップ教育研究を「包括的」に論じようとするスタンスをとっています。
本書にみなぎる著者の気迫が伝わってきます。
国内だけでも膨大な研究を包括的に扱い、米国のシティズンシップ教育研究の最新の研究動向をフォローし、独自の現地調査の結果を複数盛り込むことで、まさに「貧困地域の市民性教育改革」の分野を理論的・実証的に解明しようとしているのがよくわかります。
この本書の包括的レビューは、「貧困地域の市民性教育」だけに限定される話ではなく、様々なシティズンシップ教育・市民性教育の研究を架橋する試みとして、重要な意味があると思います。著者の古田さんの視野の広さや深さをヒシヒシと感じます。
その上で、
個人的には、本書の議論の柱は二本あるように思いました。
一点目は社会経済的に不利な立場に立たされる子どもを、社会参加や社会参画へと主体的に関与していけるように促す教育方策を模索・提案している点です。
本書ではこれまでの先行研究を包括的に論じながら、その方策を授業方法、学校運営、地域との連携など様々なレベルから論じています。
このようにアメリカでは、政治・社会参加に重要な資源となる知識や意欲等について、貧困層やマイノリティの子どもの水準が相対的に低位にとどまりやすい格差の実態や、その背景要因として家庭・学校、地域といった種々の環境が与える影響について、広範な知見が蓄積されてきた。ただし、これらの諸環境が相互にどのように影響し合い、貧困地域での生活経験が相対として子どもの市民性形成にいかなる影響を及ぼすのか、十分に整理されてきたとはいえず、そうした連関構造の解明が課題である。また、1990年代以降に相次いで取り組まれてきた教育改革との関係性についても、より踏み込んだ考察の余地がある。
p.19.
子どもの市民性は、教室での学習、学校生活での様々な経験、さらには学校外での日常的経験を通じて複合的に形作られる。現代アメリカの貧困地域は、そのあらゆる側面で課題を抱えており、この地域で市民性教育に取り組む実践者は、その連関構造の中に身を置きながら、いかにそれを組み替えていくかという課題に直面する。
p.98.
その上で本書は、「社会科の授業の改革に焦点を当てた<社会科アプローチ>」「学校全体の組織的な改革に重きを置く<学校全体アプローチ>」「地域コミュニティの包括的な改革に力点を置く<地域コミュニティアプローチ>」の三つを考察していくことになります。
特に強調されているように感じたのは、生徒が日常生活で感じている「不整合」をどう乗り越えていくか、という点だったように感じます。
貧困層やマイノリティの子どもはときに、自身の経験を、過去の不平等や不公正の歴史的経験と重ね合わせて意味づける。ルービンはその意味を「不整合(disjuncture)」という概念を用いて捉える(Rubin 2007)。こうした子どもは、教室で学ぶアメリカの民主主義の理想と、自身や家族が経験してきた数々の現実とが大きくかけ離れた、「不整合」の経験を蓄積していくのである。
pp.50-51.
この不整合を論じる際に、貧困に置かれた人も、適切な環境に置かれば、十分に主体性を発揮できること(p.58.)や、現状の政治や社会に対する不満や排除・差別の経験が、社会形成・変革への参加の源泉になること(p.52-53.)などにも触れられています。
これらの指摘を含め、大量の先行研究の知見を踏まえた上での本書の分析・提案の一つ一つには、説得力があります。
二点目は、教育改革を行う際に、教育の環境全体をトータルで改革していかないと実効性が薄いという点です。
本書が、授業、学校、地域の三点の連関に注目し、学校経営や校長のリーダーシップ、地域とのパートナーシップに注目する理由もここにあるように思いました。
改革が特定の個人の意向や力量、リーダーシップに依存する限り、より広範の展開は期待しにくく、また改革の持続も課題となる。学校改善や教育改善の成功事例とされるものが、一部のすぐれた校長や教員の実践、あるいはチャータースクールのような特殊な学校環境での取り組みにとどまりやすい問題は、「すぐれた実践の孤島(islands of excellence)」とも表現される(Togneri & Anderson 2003)。先のエルモアは、「学校と教師がその下で仕事をする刺激構造を根本的に改革しない限り、多かれ少なかれ無限に、進歩主義者やカリキュラム改革派の経験が繰り返されるだけだろう」(Elmore 2004-2006, p.32.)とし、何らかの外部規範構造(external normative)を作り出す必要性を説く。市民性教育の格差是正を広く実現していくためにも、校長や教育長、学区担当者個々人の資質能力や努力の域を超え、改革を制度的・政策的に組み込みつつ、関係当事者の理解や協力を促し、支援していくことが重要課題といえよう。
p.219.
これらの問いが補論のイリノイ州での市民性教育に取り組む学校を認定する「イリノイ・デモクラシー・スクール」の取り組みやその関連法整備、さらには、学校改善計画や自己評価などの考察へと繋がっていきます。
また逆に言えば、授業方法だけが良くても市民性教育として上手くはいかない。だからこそ、本書は、学校風土に関する学校の「隠れたカリキュラム」の考察をしていく。そこに一貫性を強く感じました。
あと個人的に面白いなと思ったのは、シティズンシップ教育に関わるジレンマを紐解いている点です。
例えば、公民科を必修にするために州テスト導入を求める声やその反対論の話(p.83.)だとか、市民性教育が自己責任論に荷担してしまうのではないか、「弱い人に鎧を着せる」ことになるのではないかという批判への応答(p.202.)などが挙げられます。
いずれも読み応えがありました。
・・・・・・
さて、本の紹介はここまで。
個人的には、この本を読んでシティズンシップ教育研究の可能性を大いに感じました。
悔しさなど通り越して、古田さんと同世代に生まれてよかったなあと喜んでいるのが率直な感想です。
同時にこれだけ包括的に研究をされてしまうと、自分に果たして何ができるのだろうと不安にもなりました。
本書は、社会科教育にも大きく踏み込んだ議論をしており、一つ一つの論点が、教育制度や学校風土の問題、地域連携と密接に関わっていくことがよくわかります。
だからこそ、この一つ一つを各論的にやっていた研究者は、この本を読み、どう応答するのだろうか。そこが気になりました。
本書が各領域の研究者にどのような影響を与えるのか、今後が気になります。
私個人は米国社会科教育史やカリキュラム史の研究をやっていることもあり、授業や制度、地域の関連を捉えていく視点には非常に共感するものがありました。
脱線してしまうかもしれませんが、(狭義の意味での)社会科教育史で語られる授業理論や良い授業プロジェクトの語りと、学校におけるトラッキングや履修選択の実情、学校教育と社会変化の関連を描いた教育史的な語りとでは、かなりの隔たりがあります。その両者を繋げたいなあと思ってきました。(まあ、私の力不足は承知しておりますが)
最近論文を書き溜めている1930年代のコア・カリキュラムも、私の理解では、構想の骨格となるのは、カリキュラム原理そのものではなく、教員研修・教師教育のあり方や学校の設備投資の問題だったと思います。
授業と時間割・校舎の関係性を浮き彫りにした宮本先生の『空間と時間の教育史』や、教授理論家と学校現場の教員らとの葛藤や対話を論述した藤本先生の『マクマリーのタイプスタディ論の形成と普及』に惹かれるのも、そういう関心があるからだと思います。
そういう意味で、(シティズンシップ教育を論じていること以上に、)授業を広い視点から捉えていきたいという点で、古田さんを同じ志や問題関心を持つ仲間のように感じました。大変心強い想いです。
ただまあ、本書を読むと、自分は何をすべきなのかを振り返らせる気がします。
是非、読むことをお勧めします。