外国人の権利がどこまで認められるべきか、どうすれば認めうるのかについて論じた本です。
著者自身は、外国人の権利が最大限に認められるべきという立場ではあるものの、主権国家のあり方と、外国人の権利保障の両立の難しさについても、様々な視点から考察しています。
「外国人という地位は、いかなる基本的人権もはく奪されるものであってはならないのだ。さらに、正しい成員資格には、いくつかの条件を満たした外国人に関しては、市民資格への権利もまた含まれている。永遠によそ者であることは、自由民主主義的な人間共同体の理解と両立しないだけではない。それは基本的人権の侵害でもある。」
(p.3.)
「哲学的な観点からみれば、国境横断的な移住は、自由民主主義体制の核心になる構成的なディレンマ、すなわち、一方における主権的な自己決定の要求と、他方における普遍的な人権原則の支持というディレンマを全面に押し出している。」
(p.2)
「脱国家的な普遍主義的連帯と排他的な成員資格の実践との対立がもっとも明白になる場所は、領土的な境界及び境界線にほかならないのである」。
(p.15.)
「あらゆる自己立法の行為は、自己構成の行為でもある。自らをこれらの法によって拘束することに同意した「われわれ国民」は、その自己立法の行為それ自体において自分自身を「われわれ」として定義している。このプロセスにおいて表明されているのは一般的な自己統治の法だけではない。自らをこれらの法によって拘束する共同体は境界線を引くことで自らを定義しており、それらの境界線は領土的であると同時に市民的なものでもある。民主的な主権者の意志は、その管轄のもとにある領土にしか及ばない。民主制は国境を必要とする。」
(p.42.)
「国際法における重要な展開は、避難あるいは庇護の求めによるものであれ、たんなる移民によるものであれ、移住運動を犯罪とみなさない方向にも向っている。権利を持つ権利は、今日では、国家的な市民資格から独立した、すべての人間の普遍的な人格性の地位の承認を意味している。・・・(中略)・・・とはいえ、庇護を要請する権利が人権として認められている一方で、庇護を付与する義務は主権的な特権として国家によって注意深く抑制されつづけている。この意味において、カントやアレントの指摘は全く間違っていた訳ではなかった。無国籍者や亡命者の地位を守ろうとする国際法のかなりの発展にもかかわらず、普遍的人権と主権性要求との対立は、領土的に境界づけられた国家中心的な国際秩序の核心にある、根本的な逆説となっているのである。」
(pp.64-65.)
いずれも、外国人の権利を考える難しさを感じさせる文章ですね。読み応えがあります。
同時に、過去の著名な哲学者や現代政治哲学の関係者が、移住の問題についてはあまり言及しない点についても、批判的に論じていくのが印象的です。多くの議論の前提が、暗黙裡に国家を独立した政治システムのようにとらえている点が、抉り出されていきます。
特に中心的に取り上げられるのは、カント、アレント、そして、ロールズ、その他にはマイケル・ウォルツァーなどです。とりわけロールズに対するかなり批判的な指摘が目立ちます。
「国際的でグローバルな正義論を展開している最近の試みは、奇妙なことに、移住の問題については沈黙している。
(pp.64-65.)
「ロールズの国民観と「完全でとじられた社会」のモデルの両方を考慮すれば、移住が<諸国民の法>の一つの局面とみなされなかったことは驚くことではない。」
(p.82)
考察を深めていく中で、やはり、主権が意思決定のプロセスと関わる以上、外国人の全ての権利を無前提に認めることは困難な場合があることを著者は認めます。その上で、外国人の権利を保障するために、「民主的反復」という考えに可能性を見出しています。
「そこで「民主的反復」という概念を使って、文脈を超越した憲法ならびに国際規範が、いかにして民主的多数派の意志と調停されうるのかを提示することにしたい。民主的反復とは、自由民主主義体制の法的および政治的制度とその公共圏を通じて、普遍主義的な権利共有が議論され、文脈化される、公論、熟議、学習の複雑なプロセスである。」
(p.17.)
「「市民」と「外国人」、「われわれ」と「彼ら」との区別は、民主的反復をつうじて、流動的で交渉されやすいものになりうる。」
(p.19.)
「民主的反復とは、普遍主義的な権利の要求と原則が、法的および政治的な制度全体をつうじて、そして市民社会の諸団体において、論争されては文脈化され、呼び出されては取り消され、提起されては配置される、そうした公的な議論、熟議、応酬の複雑なプロセスを表したものである。それは立法府、司法府、行政府といった「強い」公共機関だけでなく、市民社会の諸団体やメディアといった非公式な「弱い」公共圏においても起こりうる。」
(p.165.)
そして、このような「民主的反復」を示す事例として、フランスとドイツの両国における「スカーフ事件」を論じています。
とりわけ、ドイツの事例は、「誰がドイツ市民たりうるのか」(p.186.)という、国民の再定義を行うものとして、高く評価されています。
また、外国人の権利、すなわち他者の権利が社会そのものを起動させる利点についても書かれていて、読んでいて何か鼓舞されるものがありました。
「「他者の権利」は政治的自由主義のプロジェクトを脅かすものではない。むしろ、これらの権利はそれをより内包的で、動態的で、熟議的な民主主義のプロジェクトに向けて変革するものなのである。」
(p.84.)
「多数派とは異なる文化的アイデンティティをもった個人の存在は、国家に「法生成的政治」の次元を導きいれるものである。そして、そのプロセスにおいて、他者は我々の政治や文化的アイデンティティを再領有し、再解釈しながら、我々の解釈学的パートナーとなるのである。」
(p.155.)
最終的に本書では、EUの権利体系について論じつつ、「分解された市民資格」という考え方に焦点を当てています。
「分解された市民資格は、国際的および国境横断的な文脈の元で、国民国家の教科戦を超えた複合的な忠誠とネットワークを発達させ、持続させることを個人に容認するものである。」
(p.161.)
同時に、「民主的正統性と分解された市民資格の現実の間には緊張がある」(p.161.)と述べる点も著者の視点が明確に見えます。
民主制を維持するための権利もまた守る必要がある。
私はカントの精神に従って、道徳的普遍主義とコスモポリタン的連邦主義を擁護した。そこで提唱されたのが、開かれたというよりも、むしろ入りやすい国境であった。難民や庇護申請者たちの最初の入国権は擁護されなければならないが、最初の入国から正規の成員資格への移行を規制する、民主制の権利もまた認められなければならないのである。
(p.204.)
このように本書では、外国人の権利を保障することと、民主制の制度設計の中での意思決定に外国人の声を取り込んでいくことの難しさ、その重要性を感じさせてくれる内容となっています。
最新動向をフォロー出来ていないので申し訳ないのですが、この本を2004年に書いた著者が、今のEUや国際政治の動向をどのように論じるのかについて、興味がわきました。