児童が勝手に話し合いをはじめて、勝手に席を立ちあがり、似た考えの人同士で作戦会議を始める。何を今日話し合いたいかも場合によっては児童が決める。著者は、授業中に児童が自由に教室を動き回ることを認めています。
築地先生と言えば、「社会科の初志をつらぬく会」の理念を実践化していることで有名な安東小学校の看板教師だったというイメージが強いのですが、本書を読むと、著者の語り口が思った以上に謙虚というか、率直であることに驚きました。より正確に言うと、自分とは違う授業観の人のことも認めつつ、自分はどういう授業がしたいのかを一つ一つ言葉に紡ぎながら、考えながら話している感じがして、それゆえに読みやすかったです。
著者は、児童一人ひとりの成長を見取りたいと強く願っている。そして、その成長を見取る目を自分自身が持ちたいと思っている。その結果、「授業の記録を重視した授業」をすることになります。授業中に誰がどんな考えを持っているのかはもちろんのこと、誰の発言を受けて誰の発言が変わったのか、発言出来ていない子の発言出来ていない理由は何かなど。そういったことを一つ一つ観察するために、著者は授業前に座席表指導案を書き、授業後には授業中に速記で書いたメモを基に、誰が何を発言したか、授業展開も含めて授業記録やカルテ(児童の日々の様子や考えを記録する資料)に再構成します。また、1つ1つの授業で、位置づける子ども(抽出児)を決めて、この範囲において、この子の今の特徴や課題は何で、この授業を通して何に気付いてほしいかを事前にまとめておく。それゆえに本書では、授業中の文字記録が豊富に紹介されます。
授業中にこれだけ教師がメモを取っているのだとしたら本当に凄い。ただ、この記録を重視することが真に大切にしているのは、授業の前後に1人1人の子どもの顔を思い浮かべ、書いた記録と照らし合わせながら、一人ひとりの成長とは何かを考えた上で、授業をすることなのかなと感じました。
本書で紹介される授業では、教師が全面に出て授業を展開するのではなく、教師は話し合いのタイミングを見て合いの手を入れたり、論点を簡単に整理したり、特定の児童に発言を促すような役割を担っている。そしてこれが神業的なのでした。その裏には、深い児童理解とまさに記録がある。
本書には、様々な生徒の個性やキャラクターが豊かに描かれています。やや不規則な発言する西田君、クラスで最も発言権の強い川本君、頭は切れるが空気を読む池田君などなど。そういった個性あふれる記録がでてくるのも、そういった個性を前提にして、○○くん・さんにはここに気付いてほしい、と教師が願い授業を行っていることの現れなのだと思いました。1人1人の成長の軌跡が物語的に記録されているとも言えるのかもしれません。
逆に言えば、著者は絵にかいたような、「良い研究授業」のスタイルを嫌っているように思います。授業の主役は児童なのだから、児童が納得するまで話し合う方がいいし、パフォーマンス染みた派手な発問を教師がする必要はないとも思っている感じがします。 著者は、授業の最後の結論を教師が言うことに否定的です。それは、「それだと児童が教師に依存してしまう。子どもの追究力が弱る。結論は子どもに出させるべき。」と。児童を信頼し、その成長を願うということの意味を、考えさせられた本でした。
やはり、授業を分析する上でも、自分の今の気持ちや授業観を振り返る上でも、記録をするって、大切だなあと思いました。