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2022年振り返りと現在の問題意識など

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本年もあと少しとなりました。
今年の振り返りと今の問題意識を整理したいと思います。
無駄に長くなってしまった気がしますが。。ひとまず書きまとめました。

1.今年の論文

今年度に新しく書いた(掲載予定含む)論文は以下の三本です。

1.斉藤仁一朗(印刷中)「戦後初期の中学校社会科カリキュラムの総合性に関する考察─横浜市の公立中学校・市の教育課程に注目して─」『東海大学資格教育研究』第2号.(2023年2月刊行予定)

2.斉藤仁一朗・後藤賢次郎(2022)『社会科教育研究としての模擬授業研究の展開と特質』『日本教科教育学会誌』第45巻、第3号.

3.大坂遊・渡邉巧・ 岡田了祐・斉藤仁一朗・村井 大介(2022)「教師経験の乏しい教師教育者はどのように教師を育てることと向き合うのか:初任期にセルフスタディに取り組んだことの意味」『周南公立大学論叢』 第1号, pp.23-46.

1と2の研究は、これまでの問題意識がやっと形になり始めた、新しい論文です。といっても、今回だけの一発ものの企画ではなく、今後も少しずつ掘り下げていきたいと思っています。
(2の論文内容については、またどこかで紹介します。)
いずれも、新しい研究領域に踏み込む必要があったため、前提となる勉強に時間がかかってしまいました(というかまだ圧倒的に不勉強です)が、このプロセスを通して、視点や知識が広がったように思います。

ただ、単著の査読付き論文が無いのは痛いです。本命の米国教育史に関しては、論文掲載に至っていません。これはひとえに私の力不足。。もっと自分の地力をつけないといけないと痛感しています。

少しさかのぼりますが、2021年3月に単著を刊行したときに感じたのは、自分が見ている世界が圧倒的に狭いことでした。
アメリカ教育史・アメリカ史にしても、社会科教育史にしても、カリキュラム研究にしても、シティズンシップ教育研究にしても、自分の知る狭い狭い世界の中だけで論じていることを、文章を書けば書くほど痛感しました。
それはひとえに自分の読書量というか、インプット量が少ないことに起因しているとも思いました。素朴に、各領域の本を何百冊読んだのかと聞かれたときに、実は不勉強な自分がそこにいる。そのことを自分自身がよく知っていたからです。

その後、以前と比べて読む本の幅は広がったような気がしています。論文執筆に直結しない本の読書などは、メモ書きするようにも努めています。
もちろん、1年やそこらで大きく変化があるわけではありません。読む速度も速くはない。そして何より、本を読めば論文が書けるわけではない。もしかすると、論文執筆からの現実逃避なのかもしれないと、同世代の出版成果報告などを見るとそのたびに思います。
ただ、とはいえ、論文の数だけ増やそうとした私が、読書やインプットをおろそかにしてきたのは事実です。
なので、論文を書くこととインプットをすることは別物と捉えたうえで、今の自分は、インプットの時間を特に大切にしていく必要があると感じています。
何だか院生に戻ったような気持ちですし、単に丸くなっただけかもしれませんし、研究力のない自分に絶望しているだけかもしれない(まあ、査読が通らないからですけど…)。でも、今は次のチャレンジに向けての下積み時間だと信じています。


2.その他の社会活動的なこと
今年は、J-CEF(日本シティズンシップ教育フォーラム)のスタディスタヂオ(市民講座のような定期企画)の運営と、教科教育史研究会の企画・運営、あと学生との「新書を読む会」の運営に携わることができました。(特に最初の二つは、私がメインというわけではなく、一運営参加者として関わっているだけですが。)

J-CEFのスタディスタヂオに関わる中で、自分の知らない領域や分野に関わる情報に多く触れたり、刺激を得ることができます。今年メインで担当した、プレーパークの企画でも、「遊び」の概念や住民参加の考え方について、自分自身で準備段階で学ぶこともできて大変有意義でした。
また、「シブヤ大学」の深澤さんをゲストでお招きした際の話の中で、市民講座的な企画を定期開催すること自体が「市民活動」なのだと実感することができました。この感覚、実は自分の中で育っていない感覚だったんです。
正直、私の場合、シティズンシップ教育や主権者教育の関わる自分が、仕事としてかかわっているのか、一人の人間として関われているのか、よく分からなくなることがありました(後者の参加に自信がない、ということかもしれません)。でも、仮にスタディスタヂオの定期開催に助力することが、誰かの気付きや出会いを潜在的に生み出しているのだとすれば、そして、そういう場を維持・継続していくこと自体に、社会的な資源としての価値があるとすれば、自分の存在も何か市民的な営みの中に位置づけられるのかもしれないと感じます。
そう思えば、今やっている一つ一つの積み重ねの大切さを実感できます。

教科教育史研究会では、今年度で計7回の実施ができました。そして気づけば、通算の実施回数は計16回に。参加者の皆さんに支えられ、そして、ともに企画・運営をしてくださる勘米良さん(武蔵野大学)に大いに支えられ、ここまでやってこれた気がします。
以下は研究会の考えではなく、私の私見です。
教科教育史研究会を企画・運営する中で様々な気付きがありました。「教科教育史とは何か?」という演繹的な問いに対しては、まだ自分なりにこれだと思った答えはありません。
ただ、様々な教科の歴史を聞く中で、「教科の歴史」が教科の垣根を超える共通言語になるのだということは実感しています。同じ過去の出来事に対する捉え方が各教科で全然異なっていたり、海外からの影響の濃淡、戦前戦後の接続性の濃淡が教科によって異なっていたり。
それは単に多様であるともいえるのですが、その一つ一つの歴史解釈の違いが、日本の学校カリキュラムの複雑な性格を淡く映し出しているように、私には感じられます。
同時に、毎回、異なる教科の歴史を聞くと、教科ごとの流れが時に合流したり、行き来していることも実感できます(それ自体が視点を広げることに繋がります)。自分の教科固有の歴史と、他教科とのつながりの歴史を、良い塩梅で学べている、そんな心地よい場になっているように思います。
これからも緩やかに続けていけれいいなと。

「新書を読む会」は、学生と約1か月一冊ペースで新書を一冊読んでいる会です。オンラインで毎回5~6人程度でこじんまりと実施しています。本をガリガリ読むのではなく、本を通して感じた関連しそうな身近な経験や自分自身の想いを語り合う、という点に重きを置いた会です。
本の内容も勿論大切なのですが、私はこの会の中で、学生の意見を聞いたり、意見交換をする時間がこの上なく幸せで、重要なひと時だと感じています。
参加する学生らの感受性のあらわれとしての言葉の表現を聞きながら、20代の若者の現代社会に対する見方や、未来への不安や希望を感じます。回によっては、かなり先鋭化した論点を扱う時もあります。その時に「斉藤先生はどう思いますか?」と参加者から聞かれると、自分自身の言葉で、正直な自分の意見を答えるしかないなと思いながら、いかに自分が安定のある生活をしているのか、特権的な立場にあるのかを自覚する時もあります。未来への不安の中で学生の紡ぐ切実な言葉に比べたら、私の言葉なんて、何のリスクも背負っていない安全圏からの発言なのかもしれない。そう思う時もあります。
でも、そんなお互いの意見を、安心して言い合える場が今は築けています。この会も細々とでも良いので、大切にしていきたい場です。


3.模擬授業指導を通して考えること
今年、例年以上に時間をかけて取り組んだのが、学生との模擬授業作りでした。もちろんこれまで毎年、模擬授業指導には取り組んできたのですが、今年は、模擬授業の事前準備の面談や、模擬授業後の検討会でのフィードバックも含め、過去一番手厚く向き合ってきました(もちろん、私が手厚く向き合ったことと、履修者の出来が良かったり、満足度が高いことはまた別物だと思っています。授業としてうまくいっているかの判断はいつも難しいです。)。

そのプロセスで改めて感じるのは、「授業作りにおいて教科内容に対する理解が重要となってくる」点でした。

模擬授業の事前相談や、皆での検討会の際に重要となる問いの一つは、もちろん、「授業の狙いは何か?」「なぜ○○の範囲を社会科で教える必要があるのか?」という狙いに関する議論です。
ただ、その論点を具体化していくためには、どのような資料や事例を用いるか、どのような発問を設定するかといった話になっていきますし、その話を提案力をもって議論するためには、教科内容について詳しくないと議論ができない。

こう書くと当たり前のことなのですが、私自身が教科内容の理解をこれまで少しおろそかにしていたのかもしれない。そう感じました。(最近は、教育学の本よりも、教科内容に関する本をよく読んでいるような気もします。)

と同時に、教科内容に詳しくなれば、良い授業が作れるわけではない。とりわけ、社会科教育学の知見を用いて授業を作りたいと思う私自身にとって、「理論」とは何なのか?改めて考えさせられるというか、少し分からなくなっている気もします。

学生の試みる一つ一つの資料提示や発問に対して、「社会科教育学の理論」を経由して、具体的な提案をすること。このことの難しさを今実感しています。重要なのは、理論を説明しやすい事例で説明するのではなく、いま目の前に飛びこんできた資料や発問を、理論を経由しながらアレンジする力です。そのアレンジ力を含んだ理論理解が浅いのだと思います。

また、模擬授業という場が総合力を求められるがゆえに、「社会科教育学」という領域の理論だけでは、一つ一つの授業の発問、資料、流れの提案を根拠づけるには不十分だと感じます。そういう意味では、教育心理学、教育方法学等、様々な領域の知識も、可能な範囲で学生に提供すべきだとも感じます。

そのため、模擬授業という場において、
おそらく私に求められているのは、
「様々な社会科教育学や教育学全般の知見と、教科内容に対する知識を駆使したうえで、
そのエッセンスを凝縮したようなフィードバックや提案や、サポートを学生にできること」なのだと思います。

社会科教育学者は、社会諸科学の知識や、教育学の理論、更には、子どもの反応や、実践の中での子どもの様子などを繋ぎ合わせながら、授業を作り、論じていく。仮にそうだとすれば、それはおそらく膨大な知識と経験が必要になるのだと思います。

その営みを毎日、毎時間のように行っている学校現場の先生方の授業作りや実践の営為は本当に尊いものだし、知的なものだし、クリエイティブなものだと思います。膨大な読書をしたうえで、研究しながら授業をしている先生を何人も知っています。そういう先生方を、私自身、心から尊敬しています。

一方で、私に仮にできることがあるとすれば、それらの実践の一つ一つをもう少し俯瞰して分析し、新たな方向性や可能性を示すこと。
(ただそれは非常にあいまいな言い方だと思います。)

より具体的にいえば、
学校現場の先生方よりも論文や学術書に触れる時間が多い(はずの?)立場を活かし、
学問知や理論知と授業の発問や資料提示などの選択肢とつなげていくような、そんな役割やあり方が一つの可能性としてありうるのではないか。

そういう意味では、私自身は、ある意味で少し頭でっかちになっても良い(現場の先生と言うことや見方が違っても当然良い)。
ただ、一つ一つの授業で具体的に発問や資料の例を提案し、それに裏付けられた理論や研究をその都度紹介できるような、自分自身が膨大なデータベースになる必要があるように思います。

そのためには、社会科教育学者であるからこそ、さまざな領域の膨大な本や論文を読み続ける必要があると私は感じます。
(それこそ「書く」ことよりも「知っている」ことの方により価値があるかもしれない、とも。)
ただ、私にはそのような力が圧倒的に足りない。

でも、だからこそ、社会科教育の授業作りや、それを学問的に考えていくことの魅力を、今年ほど感じた一年はなかったです。

デューイが、授業における学問・科学の重要性を説いたり、教師の教科専門的な理解を重視していたこと、授業という営みを非常に知的なものとして捉えていたことの意味が、今年ほど何度も頭によぎった瞬間はありません。

とはいえ、模擬授業指導のために、自分自身のインプットをすることは、論文執筆に即還元されるわけではありません。むしろ、色々な領域のことを手探りに学んでいるだけでは、特定の領域の「専門性」と呼ばれるものには到達し得ないことは自覚しています。
(例えば、社会科の授業作りのために社会科学の知識を学ぶ必要はあるけれど、どんなに頑張っても、私は、特定の社会科学領域の専門家になれないです。どう見ても圧倒的に浅いわけです。)

それゆえに、模擬授業作りに関わる私は、マルチに沢山の領域の情報に触れ、ある意味あらゆる分野に対してアマチュア的な存在であるのかもしれません。
「マルチでアマチュア的」・・・・。
そんな自分が、学生に模擬授業指導をする際の、自分の確固たる専門性とは何なのか、迷子になりがちなのが、私の現状ではあります。
(少なくとも、模擬授業指導において、常に社会科教育学の理論を自由自在に振り回せるほど、私は理論を理解できていない。)
これは2022年末現在の、大きな宿題でもあります。

以上、長い振り返りとなってしまいました。
研究業績は少ない一年でしたが、振り返ってみると、多くの学びがあったし、次の成長につながる気付きもいくつか持てている気がします。
まだまだ未熟な私ですが、一歩一歩勉強しながら成長していきたいと思います。




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