感想メモ

中山京子・東優也他(2020)『「人種」「民族」をどう教えるか:創られた概念の解体をめざして』明石書店.

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目次は以下の通りです。

序章 今、「人種」「民族」を問う意義

第Ⅰ部 教育において「人種」「民族」はどう認識され、論じられてきたか
第1章 「人種」とヒトの多様性――学校でのまなびのために
第2章 「人種」「民族」とは何か
第3章 「人種」に関する認識
第4章 社会系教科の教科書記述に見る「人種」「民族」

第Ⅱ部 日本と外国で「人種」「民族」について授業でどう教えられてきたか
第5章 日本における「人種」「民族」を取り上げた授業構想
第6章 アメリカの初等・中等学校の人類学教育における「人種」言説と実践――1930年代~1960年代を中心に
第7章 外国では「人種」「民族」をどのように教えているか
第8章 「人種」と「先住民族」に関する学習

第Ⅲ部 学校で「人種」「民族」をどう教えるか
第9章 「人種」をテーマにした授業づくりのために
第10章 「人種」を問い直す授業実践
第11章 小学校における授業構想
第12章 中学校における授業構想
第13章 高等学校における授業構想

あとがき

(詳細は出版社HPにて)

本書の主張は、端的に序章でバシッと示されています。

本書の主張を先に示そう。「人種」は社会的に創られた「概念」であり、「人種」ではない。これは人類学研究において明らかにされてきた。人類の種は一つであるにもかかわらず、日本の多くの人びとが未だに「人種」はあると考え、「白人」「黒人」「黄色人」といった表現に疑いを抱かないのは、日本の近代国家成立時の西洋的な人種観の導入の名残と社会的言説、そして学校教育の結果である。グローバル化し、地域社会や学校が多文化化し、ヒトの多様性を受容するべき今こそ、教育に関わる者がこの考え方を改善する努力をする責任がある。日本社会では何かヒトの集団に対して「区分」や「身分」を設け「人種化」を行って来た歴史がある。それが差別や偏見を生んできた。近代に集団間の差異化・序列化と結びついてきた「人種」「民族」概念を、批判的に記憶し、学び捨てる(unlearning)必要がある。

p.13.

これらの目的を達成するために、日本の「人種」を取り巻く実態や認識がどうなっていて、教育や授業として何をしていくべきか。
それを問う本になっています。

子どもたちはどの段階で、「人種」という区分をするようになるのだろうか。そして、「人種」という概念が子どもの「当たり前」になる前の初等教育段階でどのような授業を展開できるだろうか。また、知識が増え思考が深まる中等教育段階ではどのような授業実践をすることが可能だろうか。

p.13.

この本の気迫が伝わってくる理由の一つは、人種・民族に対する現状認識を様々な角度から分析していることです。
例えば、大学生に対してアンケート調査を行ったり、教科書記述の変遷を追ったり、諸外国の動向を整理しています。各所の授業提案の際にも、教科書への問題提起が見られます。

「~人種」については、「身体的特徴」の選択が圧倒的に多く、複数回答可にもかかわらず、この選択肢のみを選ぶものが目立った。続いて「文化」「国籍」が多かった。「人種」が視覚情報により認識されていることと同時に、たびたび「民族」と誤認されている実態の一端が分かる。

p.63.

総じてみれば、明治時代に日本の教科書に登場した人種という概念は「日本種族」の優位性と辺境の野蛮性の中で語られ、大正時代には人種が皮膚の色との関係性の中で語られ、それが今日まで続いているということがわかる。それでも平成14年版以降、「人種」に対する本質主義的な見方を相対化させる記述が見られ、平成21年版になって、「人種」に対する偏見の問題等が指摘されるようになった。現在では、人種や民族といった「とらえ方がある」という記述が為されるようになっている。このように見れば、平成14年度版を境目に「人種」記述が徐々に変化してきたことが伺える。

p.82.

日本の歴史学習は「人種」に対する問題意識が依然として低く、2019年に発行された高等学校の世界史教科書全16冊を見ると、世界史A教科書9冊では「人種」概念についての記述はなく、世界史B教科書7冊では、「肌の色といった外的特徴によって区別する人種の科学的な根拠はない」といった記述が見られるのは2冊にとどまり、残りの5冊では今なお「人種」を「生物学的特徴」による分類と記し、このうちの3冊では「モンゴロイド(黄色人種)・ネグロイド(黒人)・コーカソイド(白人)」という古典的な分類を紹介し続けている。

p.269.

当然ながら、現状の学校教育に対して、鋭く批判していく場面もあります。

小中学校で、アイヌ民族の歴史ではなく、アイヌ民族の「文化」と言われている点は注目されてよいだろう。…(中略:斉藤)…これまで「アイヌへの差別問題を怒りを込めて語る教師でも、日本の歴史を教える時は『大和民族史』を教えている」(榎森 1977:39)という指摘もあるが、この指摘は、現在の社会科教育(学校教育)にも通じるのではないか。例えば、学校教育は、「大和民族史」の学習を「大和民族史学習」と呼ぶことはないだろう。通常、それは「歴史学習」(特に小学校では)と言われる。しかし、アイヌの歴史や文化に対しては「アイヌ史学習」「アイヌ文化学習」「アイヌ学習」という。

p.158.

ただ、人種をめぐる授業開発・実践は、様々な現実的な障壁にぶつかることがある。
そのことも、本書ではよく認識されていて、その上で提案がされていることがよくわかります。
一番グッと来たのはここでした。

「人種」という言葉を取り上げ、それが創られた概念であり生物学的な「人種」はないことや、ヒトの多様性に触れて授業をするときに、教師はひるんでしまう。なぜなら、学級に肌の色など風貌の何かが異なる子どもが在籍している場合が多くなっている現在、人種に関する授業を展開することが、その子供に居心地の悪さを与えてしまうのではないか、保護者をも不快な気持ちにさせてしまうのではないか、「うまく」やっている子たちに、寝た子を起こすようなことになるのではないか、と考えてしまうからである。「人種」の感覚を葬り去ることはできるかもしれないのに、授業で触れてしまうことで意識化させてしまうのではないか、と懸念してしまうのである。「人権教育」として、授業で在日コリアンの人を教室に招いて歴史や当事者の声を子どもたちに学ばせたとところ、保護者から「余計なことを学校で教えないでほしい。うちは子どもに自分たちのルーツは教えていない。知らなければ苦しむこともないし、差別もなくなる。あなたの授業のせいで子どもたちがザイニチって何、と言い出した」という強い抗議を受けたという話もある。

p.183.

これに対して、著者がこう答える。

しかし、こうした課題に躊躇していては、認識の改善は実現しえず、日本人の「人種」観は世界の認識から大きく遅れをとり植民地主義時代の見方を引きずったまま、そして学問の研究成果と学校現場との乖離も解消されないままとなる。授業をせずに避けて通ったところで、子ども達はメディアを通して「人種」という言葉を知ってしまい、無意識のうちに「白人・黒人・黄色人種」といった見方を獲得し、それを実体ある事実として受け入れてしまうだろう。それならば、やはり授業で取り上げて、理解を深めた方が良い。当たり前のように使われている「人種」という言葉や考え方が、歴史上多くの人を苦しめてきたこと、「人種化」することで肌の色のように目で見えるものではないことを理由に差別が起こること、そうしたことに批判的思考力をもち、よりよく生きようとする子どもを育てることが現代社会に求められている。

p.184.

本書では、特に三章で、具体的な授業の教材や授業例の提案が豊富に行われています。
本書は、教材研究の参考書でもあり(参考文献も充実しています)、端的に分かりやすい情報がまとまった資料集でもあり、具体的な教材集でもある感じがします。複数の機能が詰まった本のように見えます。

本書においては、古典的な「人種」観をもち、旧態依然とした用語の使い方をしている教師と子どもを糾弾することが目的ではなく、どうしたら認識を改善することができるか、次世代の子どもたちの思考を変えることができるのか、を示すことが目的である。そのためには、授業で用いることのできる資料や具体的方法を示すことが必要であろう。以下に、教師と子どもが例示資料をもとに学習を展開できる学習活動を示したい。

p.230.

このような形で、沖縄、アイヌ、在日朝鮮人、部落問題、ハンセン病、ナチス時代の「ドイツ人/ユダヤ人」の差別など、さまざまな論点を扱った授業例や情報が紹介されています。
複数の教科で授業構想を練られたり、実践結果が報告されています。
初等学校での低学年の実践などが、挑戦的な試みのようにも思いました。

印象的だったのは、日本社会において、ともすれば不可視化されてしまいがちな人種・民族の問題を、浮かび上がらせている点です。

どれだけ「ノー」を突き付けても、「辺野古移設が唯一の解決策」という日本政府の立場は変わることなく、工事は進められているのが現状である。日米の植民地主義がもたらす「琉球処分」や「銃剣とブルドーザー」、米軍基地の押し付けという差別構造の永続性、その基地建設に抗議する住民への機動隊員の「土人」発言(2016年10月)は、まさに「人種化」(racialize)の問題であり、「制度的レイシズム」が機能している問題だと言えるのではないか。

p.162.

世界では日本の部落問題が、人種主義をめぐる議論の中で取り上げられている。これに対し日本では、人種主義と部落問題は別物として捉えられる傾向がある。その要因として、黒川みどり(2016 : 6)は、「部落問題は『同じ日本人』であるにもかかわらず差別されてきたものであると見なしてきたからであり、また、そうであるにもかかわらず」、「『人種(民族)がちがう』という語りによって差別されてきた負の歴史があるため」だと述べる。

p.252.

こういう試みを通して、日本社会における人種問題が顕在化されるように思いました。大切な試みだと感じました。

その他、個人的には、アメリカ教育史の中における、人類学者をとりまく教育関係者の1930~70年代の議論が面白かったです。「1970年代後半以降、学校の人類学教育における「人種」の学習についての報告は見られなくなってきている。」(p.119.)という点などは、色々と考えさせられます。多文化教育の隆盛との関係はどうなったのだろうかとか。

最後に、本書を通して、私が一貫して関心を持ったのは、「生物学的な人種は存在しないが、社会的に創られた人種概念によって差別を受けている人々がいる」ということをどう捉えていくべきか、という点でした。
新しい人種観を得たからと言って、社会が急に変わるわけではない。そういう意味では、アメリカの人種差別の歴史の学習などから、人種・民族の学習をめぐる、複数の論点が垣間見えました。

現在アメリカの人類遺伝学会では、「人種」は社会的に構築されたものであり、「人類は生物的に分けることができない」「『種の純潔』などという概念は、化学的に全く無意味である」といった批判がなされ、「人種という概念を科学論文では使わないように」と呼びかけている(朝日新聞2019年3月28日)。
 しかし人種(=カラー)による区別をしないという「カラー・ブラインド」の考え方は、「置かれたコンテクストによっては、差別や抑圧の現状を維持するためにあえて人種を直視しない立場に加担することになる」(中條2004:50)。そのため、本授業では、「人種」は社会的に創られた概念であって、「人種」はないという立場に立つ。しかし、アメリカにおける人種差別の現実とその廃絶に向けた努力について学習するために、あえて従来使用されてきた用語である「人種」(白人、黒人、有色人種等)という用語を使用の実態に即して用いて論ずる。

p.257.

・人種が社会的に創られた概念であることを学び、相対化すること。
・社会的に創られた人種概念によって、差別が起こっていること。
・自分の人種・民族的なルーツに対し、アイデンティやプライド(この二語の意味も非常に繊細に使うべきですが)を持ち、それらを重視した授業開発が行われている場合もあること。

これらの三者の関係をどう捉え、論じていくか。
日頃から、自分自身がもっと整理して考えないといけないと実感しました。
これまで「人種」という言葉を安易に使っていたなと反省する部分も多々ありました。

とにかく、執筆陣の気迫が伝わってくる本です。
勉強になりました。

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